総合診療医 キャリアの軌跡

総合診療医がどこで何をしているか、どのようなキャリアを歩んできたかを一覧で示すことで、学生や医師のキャリアを考える助けになることを目指しています。変更や削除の希望、ご意見・ご感想は記事にコメントをお願いします。

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全国・海外

全国 男性 医師14年目 総合診療専門研修プログラム地域医療のススメ 指導医

海外 男性 医師17年目 クイーンズヘルスケアセンター(ハワイ)専門医

北海道

北海道 男性 医師22年目 更別村国民健康保険診療所 指導医

北海道 男性 医師20年目 手稲家庭医療クリニック 指導医

北海道 男性 医師33年目 名寄市立総合病院総合診療プログラム 指導医

北海道 男性 医師9年目 北海道家庭医療学センター家庭医療専門医コース 専門医

北海道 男性 医師17年目 札幌医科大学 総合診療専門研修 プログラム 指導医

北海道 男性 医師約20年目 函館稜北病院 指導医

北海道 男性 医師4年目 北海道家庭医療学センター家庭医療学専門医コース 専攻医

東北

青森

岩手 男性 医師40年目 岩手南部総合診療医養成プログラム 指導医

宮城 女性 医師7年目 みちのく家庭医療・総合診療研修プログラム 専門医 指導医

宮城 女性 医師16年目 みちのく家庭医療・総合診療研修プログラム 専門医 

秋田 男性 医師7年目 秋田大学アカデミック家庭医療・総合診療医育成プログラム 専門医

秋田 男性 医師10年目 秋田県家庭医・総合診療医養成プラグラムVer.2 専門医

山形 男性 医師7年目

福島 男性 医師11年目 大原綜合病院 指導医

福島 男性 医師17年目 大原総合病院ジェネラリスト養成プログラム、福島県立医科大学家庭医療学専門医コース 指導医

福島 男性 医師15年目 福島県立医科大学家庭医療学専門医コース 指導医

福島 男性 医師15年目 福島県立医科大学家庭医療専門医コース 専門医 指導医

関東

茨城 男性 医師25年目 指導医

茨城 女性 医師8年目かさまプログラム 専攻医

茨城 女性 医師15年目 つくば家庭医総合診療医プログラム 専門医 指導医

茨城 男性 医師39年目 誠潤会水戸病院 指導医 

栃木 男性 医師5年目

栃木 男性 医師23年目

栃木 女性 医師5年目 自治医大家庭医療後期研修プログラム専攻医

栃木 男性 医師8年目 自治医科大学地域医療後期研修プログラム 専門医 指導医

栃木 男性 医師17年目 自治医科大学地域医療後期研修プログラム 指導医

栃木 女性 医師25年目 自治医科大学地域医療後期研修プログラム 指導医

栃木 男性 医師16年目 栃木医療センター総合診療 後期研修プログラム 指導医

栃木 男性 医師3年目 獨協医科大学総合診療科家庭医プログラム 専攻医

栃木 女性 医師3年目 獨協医科大学

栃木 男性 医師10年目 獨協医科大学病院総合診療専門医養成プログラム指導医

群馬 男性 医師15年目 群馬家庭医療学センター、前橋協立病院家庭医療後期研修プログラム

群馬 女性 医師27年目 地域医療振興協会  西吾妻福祉病院 指導医

埼玉 男性 医師4年目 さいたま市民医療センター総合診療専門プログラム 専攻医

埼玉 男性 医師27年目 さいたま市民医療センター 指導医

千葉 男性 医師15年目 亀田ファミリークリニック館山家庭医診療科

東京 女性 医師4年目 専攻医

東京 男性 医師29年目 指導医

東京 男性 医師11年目 医療福祉生協連家庭医療学開発センター(CFMD) 専門医

東京 女性 医師8年目 王子生協病院 東京家庭医療レジデンシー 専門医

東京 女性 医師19年目 家庭医療学開発センター(CFMD)レジデンシー東京 専門医

東京 男性 医師7年目 慶應義塾大学 指導医

東京 女性 医師5年目 聖路加国際病院病院総合医・家庭医プログラム 専攻医

東京 女性 医師4年目 地域のススメ 東京北医療センター 総合診療科プログラム 専攻医

東京 女性 医師5年目 地域医療のススメ 専攻医

東京 女性 医師7年目 地域医療のススメ 専攻医

東京 女性 医師5年目 東京北医療センター 専攻医

東京 男性 医師5年目 東京北医療センター 専攻医

東京 男性 医師14年目 東京北医療センター 指導医

東京 女性 医師6年目 東京北医療センター 病院総合医プログラム、JADECOM 地域医療のススメ 専攻医

東京 男性 医師4年目 東京北医療センター総合診療科 地域医療のススメ 専攻医

東京 男性 医師7年目 東京北医療センター総合診療科、地域医療のススメ 専攻医

東京 男性 医師28年目 東京大学医学系研究科医学教育国際研究センター 指導医

東京 女性 医師26年目 東都文京病院 指導医

神奈川 男性 医師32年目 指導医

神奈川 女性 医師16年目 日本医療生協連合会家庭医療学開発センター(CFMD東京) 指導医

神奈川 男性 医師10年目 CFMDレジデンシー東京 指導医 

中部

新潟 男性 医師7年目 上越総合病院後期研修プログラム 専門医

富山 男性 医師5年目 とやま総合診療専攻研修プログラム 専攻医

富山 男性 医師5年目 とやまNANTO-RENKEI総合診療医養成プログラム 専攻医

富山 男性 医師8年目 とやまNANTO-RENKEI総合診療医養成プログラム 指導医

富山 男性 医師11年目 とやまNANTO-RENKEI総合診療医養成プログラム 指導医

石川 女性 医師4年目 北陸総合診療コンソーシアム恵寿プログラム専攻医

福井 男性 医師5年目 福井大学救急に強い総合診療医養成コース 専攻医

山梨

長野 男性 医師13年目 大町市立総合病院 指導医

岐阜 女性 医師30年目 専門医

静岡 女性 医師15年目 三島共立病院 専門医 指導医

静岡 男性 医師5年目 静岡家庭医養成プログラム/浜松医科大学総合診療専門研修プログラム 専攻医

愛知 男性 医師13年目 名古屋大学医学部附属病院総合診療科 専門医 指導医

愛知 男性 医師8年目 藤田医科大学総合診療プログラム 専攻医

近畿

三重 男性 医師12年目 名張市立病院総合診療科 指導医

滋賀 男性 医師6年目 医療生協こうせい駅前診療所 専門医 指導医

滋賀 男性 医師8年目 東近江地域家庭医療学後期研修プログラム 専門医 指導医

滋賀 男性 医師14年目 弓削メディカルクリニック 開業前研修プログラム

京都 男性 医師9年目 関西家庭医療学センター/金井病院 専門医 指導医

京都 男性 医師8年目 京都家庭医療学センター 専門医 指導医

京都 男性 医師22年目 京都家庭医療学センター ふくちやま協立診療所 指導医

京都 男性 医師23年目 市立福知山市民病院 指導医

京都 男性 医師9年目 洛和会丸太町病院 総合診療専門医プログラム 指導医

大阪 男性 医師30年目 指導医

大阪 女性 医師6年目 大阪家庭医療総合診療センター 専攻医

兵庫 男性 医師19年目 明石医療センター 専門医 指導医

兵庫 男性 医師9年目 神戸市立医療センター中央市民病院 総合診療科 指導医

兵庫 男性 医師6年目 丹波柏原地域総合医プログラム 専門医

奈良 男性 医師3年目 地域医療のススメ 専攻医

奈良 男性 医師10年目 地域医療のススメ奈良 指導医

奈良 男性 医師8年目 南奈良総合医療センター 総合診療専門研修プログラム 専門医 指導医

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島根 女性 医師16年目 浜田市国保診療所連合体 専門医 指導医

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岡山 男性 医師6年目 岡山家庭医療専門医プログラム 専攻医

岡山 女性 医師3年目 岡山協立病院総合診療プログラム 専攻医

岡山 男性 医師3年目 岡山総合診療専門医コース 専攻医

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山口 男性 医師8年目 長州総合診療プログラム 専攻医

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山口 男性 医師9年目 山口大学総合診療プログラム 専門医

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香川

愛媛 男性 医師5年目 医療福祉生協連家庭医療学開発センター せとうち 専攻医

愛媛 医療福祉生協連家庭医療学開発センター せとうち 医師

愛媛 男性 医師13年目 愛媛県四国中央市HITO病院 総合診療科 専門医

高知 男性 医師42年目 高知大学医学部家庭医療学講座 指導医

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佐賀 女性 医師15年目 唐津市民病院きたはた総合診療専門研修プログラム 専門医 指導医

福岡 男性 医師6年目 飯塚・頴田総合診療専門研修プログラム 専攻医

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宮崎

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沖縄 女性 医師7年目 沖縄県立中部病院島医者養成プログラム 指導医

大学院

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都道府県、五十音、昇順

パズルのように噛み合ったキャリアと、それでも揺れ続ける心——ある家庭医の「有限」に気づくまで

A先生は、出身県での義務年限を過ごしながら内科専門医取得の後に総合診療のダブルボードを取得し、離島医療や子育てを並走しながらキャリアを積み重ねてきた医師だ。一見、すべてが計画通りに進んできたように見えるその歩みの裏には、「うまくいっているはずなのに、なぜか揺れる」——そんな繊細な葛藤と模索があった。

 

第1章:すべては「計画通り」だった——でも、その裏側で

■思い描いた通りに始まった子育て

インタビュアー:まず最初に驚いたのが、出産のタイミングがとても計画的だったことです。

 

A先生: 「そうですね。医師5年目で産みたいとは、ずっと思っていて。夫がその当時は別の県にいたので、“遠距離をどう縮めるか”っていうのも含めて考えてたんですよね。だからキャリアとライフイベントが、できるだけ噛み合うといいなと思っていました。結果的には、本当にカチッとハマるように過ごすことが出来た感じでしたね。内科専門医の研修も終わるタイミングで、J-Oslerも全部終わらせて、“よし産休入れる!”みたいな(笑)」



インタビュアー:まるでパズルのピースを一つひとつはめていくような感覚でしょうか。

 

A先生: 「本当にそうで。自分でも“ここまでうまくいく?”って思うくらい、パズルみたいにハマっていったんですよね。ただ、なんか……うまくいきすぎたんですよね。だから、その時はあまり“すごく頑張った”っていう感覚はなかったかもしれないです」

■「うまくいっている人生」の中の、小さな違和感

キャリアも、出産も、勤務地も——すべてが計画通りに進んでいる。
それでも、どこかに「これでいいのか?」という問いが潜んでいなかったわけではない。

 

インタビュアー:聞いていると、理想的な義務年限を過ごされているように感じます。

 

A先生:「6年目まで離島で働いて、そのあと地元に戻れて、実家も近くて、子育てもしやすくて……本当に“理想的”だったと思います。ただ、後から振り返ったときに、“あれ、自分って何を軸に選んできたんだっけ?”って思う瞬間は、正直ずっとあります」

 

第2章:「何者でもない自分」への違和感——アイデンティティが揺れたとき

■ダブルボードという“選択”の裏にあったもの

インタビュアー:内科専門医を取ったあとに総合診療へ進まれていますが、それは最初から決めていたんですか?

 

A先生: 「いや、全然決めてなかったです。むしろ“どっちかを選ぶ”っていう感覚しかなかったんですよね。内科か、総合診療か、みたいな。内科研修がひと段落した5年目のときに、同期が“ダブルボードやる”って言ってて。“なにそれ?”みたいな(笑)そこで初めて、“両方取る”っていう選択肢を知ったんです」

 

インタビュアー:そこから方向転換を?

 

A先生: 「そうですね。“義務年限の中で最短最速で取れるものは全部取っておこう”みたいな、ちょっと戦略的な気持ちもあって、総合診療・家庭医療を選択しました。でも、ロールモデルがいたので総合診療・家庭医療に進むことは迷いませんでした」

■ロールモデルとの出会い——「ああなりたい」という感覚

A先生の中に確かな方向性を与えた存在がいた。

 

A先生: 「3年目のときに出会った先生がいて。その先生が、本当にすごかったんですよね。医学的な知識もすごいんですけど、それ以上に、患者さんへの向き合い方とか、組織の中での立ち回りとか……全部含めて、“ああいう医者になりたい”って思ったんです」

 

インタビュアー:その“憧れ”が、総合診療や家庭医療に向かわせた?

 

A先生: 「そうだと思います。患者さんを“病気”じゃなくて“人”として見る視点とか、生活背景まで含めて考える力とか。“どうやったら自分もそうなれるんだろう?”って考えたときに、家庭医療のトレーニングが必要だなって思ったんですよね」

■それでも訪れた「自分は何者か分からない」瞬間

順調に見えたキャリアの中で、大きく立ち止まる瞬間が訪れる。

 

A先生:「去年、結構しんどくて。アイデンティティクライシスに陥りました」

 

インタビュアー:どんな感覚だったんですか?

 

A先生: 「専門の先生がたくさんいる病院で働く中で、“総合診療医としてどう立ち回ればいいのか”が分からなくなってしまって。自分の得意分野も、どう見せたらいいのか分からなくて。 “私は何ができるんだろう?”って。“何者なんだろう?”って、本当に分からなくなっちゃったんですよね。専門性がない、っていうのがすごく怖かったです。何か一つ、“これです”って言えるものがない気がして」

 

インタビュアー:支えになるものが見えなくなった?

 

A先生:「そうなんです。自分の立ち位置が分からない感じだった。いろんな人に相談しました。“これでいいのかな”って。そこで、医学教育の勉強会のメンバーにも話を聞いてもらって、“ボードを持ってるかどうかじゃないよ”って言われたことが気づきにつながった。“ボードを持ってなくてもすごい人もいる。結局は自分の力をどう伸ばすかでしょ”って。そのとき、“ああ、そうか”って少し楽になった。“これからの時代は、複雑な問題を抱えた患者さんが増える。その人たちに向き合うのは、むしろわたしたちみたいな医師だよ”って、“専門性を見せることよりも、目の前の患者さんを幸せにすることを積み重ねた方がいいんじゃない?”って言われて……それで、“ああ、そうかもしれない”って」

 

インタビュアー:その言葉で、完全に吹っ切れましたか?

 

A先生: 「いや……“完全に”ではないですね。たぶん、これからも揺れると思います。 “揺れながら進むしかない”みたいな感覚にはなってきました」

 

第3章:「母になる」という夢のあとに——満たされたはずの心が揺れる理由

■「お母さんになりたい」が最優先だった

インタビュアー:A先生にとって、子どもを持つことは大きな目標だったと伺いました。

 

A先生: 「そうですね。人生の中で一番やりたいことが“お母さんになること”だったんですよ。学生の頃からずっと思っていて。キャリアも大事だし、勉強もしたいし、大学院も行きたい。でも全部並べたときに、やっぱり一番は“子どもを持つ”ことだった」

 

インタビュアー:それが実現したときは、どんな気持ちでしたか?

 

A先生: 「もう、すごく嬉しかったです。“何を犠牲にしてもいいから、この子を育てる”みたいな。すごく強い気持ちで、“私はお母さんだ”っていう感じでしたね。でも、半年くらい経って仕事に戻ったときに……なんか、すごい孤独感があったんですよね」

 

インタビュアー:孤独感、ですか。

 

A先生: 「家の中にいる間に、社会がどんどん進んでいく感じがして。後輩が論文を書いたり、いろんなことを成し遂げていく中で、“私は何してるんだろう?”って。自分はずっと同じ場所にいるのに、周りだけが進んでいくような感覚で……取り残されてる感じ、ですかね。たぶん、“次はこれもやりたい”“あれもできるんじゃないか”って、どんどん目が外に向いていったんだと思います」

■「隣の芝生が青い」という感覚

A先生: 「なんか、ずっと“隣の芝生が青い”んですよね。たぶん、私の芝生も他の人から見たら青いのかもしれないけど、自分からはあんまりそう見えなくて。逆に周りがすごく輝いて見える」

 

インタビュアー:それは、苦しい感覚でもありますよね。

 

A先生: 「そうですね。“もっとできるはずなのに”って思っちゃうんですよ。今までは、思ったら体がついてきてたんですけど……最近は全然ついてこなくて。“気持ちは前に行きたいのに、体が動かない”みたいな。そういう感覚は初めてでした」

■二人目の出産で気づいた「限界」

その違和感は、二人目の出産を機に、よりはっきりとした形を持つようになる。

 

A先生:「二人目が生まれてからは、全然違いましたね。物理的に時間が足りないし、夜も眠れないし」

 

インタビュアー:一人目のときとは違いましたか?

 

A先生: 「全然違います。一人目のときは“子育て100%!”みたいな感じだったんですけど、二人目になると、そこまで振り切れないというか。社会とも関わりたいし、外にも出たい。気持ちは前のめりなんですけど、現実が全然追いつかなくて。“やりたいのにできない”っていうもどかしさが強いのかもしれないです。時間もないし、ガッツも足りない気がして。“なんでこんなにできないんだろう”って思ってました」

■「私は有限なんだ」と気づいた瞬間

その葛藤の中で、A先生はある気づきにたどり着く。

 

A先生:「これまで生きてきて、初めて気づいたんですよ。“1日は24時間しかない”って(笑)。今までは“ガッツでなんとかなる”って思ってたんですけど、ならなかった」

 

インタビュアー:そのことで落ち込むような気持ちはありましたか?

 

A先生: 「“できないのは努力不足だから”って思ってたんですけど、そうじゃなくて、“そもそも自分は有限なんだ”って気づいたら……むしろ、ちょっと楽になりました。“できないのは仕方ない”って思えるようになったというか。自分を責めなくなりました」

 

第4章:「一人ではできない」と知った先で——それでも手を離さない医師でありたい

■離島で学んだ「人を診る」という感覚

インタビュアー:これまでのお話の中で、離島での経験が大きかったとおっしゃっていましたよね。

A先生:「そうですね。たぶん、今の自分の8〜9割は離島でできてると思います。患者さんっていうより、“島の人”なんですよね。生活してる人そのもの。だから、病気だけじゃなくて、その人の背景とか関係性とか、全部ひっくるめて関わることになる」

 

インタビュアー:それは、これまでの医療とは違いましたか?

 

A先生: 「全然違いました。“人と人として関わる”ってこういうことなんだっていうのを、初めて実感した感じです。なんか……“人に戻っていく”感覚がありました。あとは院内での多職種連携の大切さを学びました。最初は、主治医として自分一人が背負っていると思ってたんですよね。でも、看護師さんとか他職種の人たちがいろいろ意見を言ってくれるじゃないですか。それを最初は、“自分のやり方を否定されてるのかな”って受け取ってしまっていた。若かったんだと思います。余裕もなかったし」

 

インタビュアー:そこから、どう変わっていったんですか?

 

A先生: 「時間が経つにつれて、“あ、この人たちプロなんだ”って気づいたんですよね。それぞれ違う視点から患者さんを見ていて、みんな本気でその人のことを考えてる。“ああ、私一人じゃなかったんだ”って思えたときに、すごく楽になって。意見をもらうことが“攻撃”じゃなくて、“支えてもらってる”って感じられるようになった」

■「一人では何もできない」という実感

インタビュアー:そこから、チームに対する考え方も変わりましたか?

 

A先生:「完全に変わりましたね。“一人じゃ何もできない”って本気で思うようになりました。前は“自分が頑張らなきゃ”って思ってたんですけど、今は“どうやってみんなで支えるか”の方が大事だと思っている。極端な話、一人が1.5倍頑張るより、5人が0.7ずつ力を出した方がいいじゃないですか。そういうチームを作れる人でありたい。リーダーでもいいし、“影のリーダー”でもいいんですけど(笑)一人ひとりがちゃんと力を発揮できるような場を作る人になりたいですね」

■「治せない」からこそできること

 

A先生: 「私、終末期医療にすごく興味があるんです。人って、最終的には亡くなるじゃないですか。だから“治す”ことには限界があると思っていて。治らなくても、その人が“幸せだな”って思える時間を少しでも長くできるような関わりをしたいです。希望を持てるように支えるというか……医者としてだけじゃなくて、人として関わる部分も含めて」

 

インタビュアー:それは、先生のこれまでの経験がつながっているように感じます。

 

A先生: 「そうかもしれないですね。離島で“人として関わる”ことを学んで、チームで支えることを知って……それが全部つながってる気がします」

■義務年限という「枠」の中で得たもの

インタビュアー:義務年限については、どのように感じていますか?

 

A先生: 「正直、ポジティブな面とネガティブな面、両方あります。ポジティブな面は、自分の枠の外に強制的に連れていかれることですね。もし自由に選べるだけだったら、たぶん自分のやりたいことしかやらないじゃないですか。でも義務年限があることで、“え、ここで働くの?”みたいな場所にポンって入れられて(笑)そこで試行錯誤する中で、見える世界が広がったし、ソフトスキル、つまりリーダーシップや多職種連携といった力が育った。そういう意味では、自分を成長させてくれた環境だったなって思います」

 

インタビュアー:ネガティブな面は?

 

A先生: 「やっぱり“専門性を深めにくい”ところですかね。やりたいことをやりたい時にできないっていうのは、結構孤独で苦しかったです。でも終盤になって思うのは、“最終的に自分がどう在りたいか”に立ち返るのが大切なのかなって思ってます。そういう意味では、私はいずれは大学に戻って、医学教育にも携わりたい。不安や孤独、葛藤を抱えたまま義務年限を過ごす人が、少しでも心が軽くなるお手伝いができたらいいなと思っています」

■それでも「患者さんのために」手を離さない

インタビュアー:これから、どんな家庭医になりたいですか?

 

A先生:「患者さんファーストで、チームを作れる家庭医になりたいです。自分一人でできなくても、その人を支えられるチームを作れる人。みんながバラバラになったときに、“患者さんにとって何が一番いいか”という軸でちゃんとリーダーシップが取れる家庭医になりたいです。そのためには、自分が折れない、手を離さない、面倒くさがらないこと。ちゃんと患者さんの目線に立って、その人の世界を理解してあげられるように成長していきたいです。私は有限なので。だからこそ、一人で全部やろうとしないで、みんなでやる。その中で患者さんにとって一番いい形を作れたらいいなって思います」

 

終わりに
順調に見えるキャリアの裏で揺れ続ける問いと、それでも誰かのために立ち続ける覚悟。A先生の家庭医としての歩みには、「臨床家としての自分」「母としての自分」「義務年限を過ごす自分」という自己の色んな側面に向き合い、時に迷いながらも、それを推進力に変えていく力強さを感じました。これから同じような境遇を過ごす若手医師の背中を押してくださる言葉をたくさんいただきました。

山奥の医者になろうと思った日 ——迷いから始まった家庭医療という道

「山奥の医者になろうと思ったんですよね。自分を立て直すために」

そう静かに語るA先生のキャリアは、最初から順風満帆だったわけではありません。高校時代の迷い、偶然出会った一冊の本、そしてまだ日本にほとんど存在しなかった家庭医療という道。
自分の人生をどう使うのか——その問いを何度も抱えながら、A先生は少しずつ「地域で生きる医師」という姿に近づいていきました。
まずは、その原点となった高校時代からお話をうかがいました。

 

1章 「このままじゃまずい」人生を立て直すための山奥の医者

インタビュアー

まず最初に、大学に入るまでの経緯から教えていただけますか。

A先生

そうですね。実は大学に入る前から、もう人生の方向はちょっと揺れていたんですよね。高校1年のときに、急に学校に行く気がなくなっちゃって。

普通の県立高校だったんですけど、朝は「行ってきます」って家を出るんだけど、学校には行かない。今で言う不登校に近い感じですかね。学校には「お腹痛いので休みます」とか適当に言って。割と自由な学校だったので、単位が落ちない程度に休みながら、だらだら過ごしてました。

そのうち、ちょっとずつ周りの友達も似たような感じになってきて。
タバコ吸ってみたり、アイロンパーマかけてみたり。不良ってほどじゃないんだけど、なんというか……だんだん“すれてくる”んですよね。「だるいよね」って言いながら、友達の家で時間をつぶしたりして。そんな生活を1年弱くらい続けてたんです。

でも、あるときふと、「このままだと、ろくでもない人生になるな」って思ったんですよね。仲間もみんな似たような感じだったから、将来のイメージが全然持てない。チンピラみたいな人生が待ってる気がして。

インタビュアー

そこから何かきっかけがあったんですか?

A先生

冬にスキーに行ったんですよ。その仲間たちと、秋田の山奥のスキー場に。友達のいとこの家に泊めてもらったんですけど、そこでその家族がすごく親切にしてくれて。親戚でもないのに、すごく温かく迎えてくれてね。それが、なんだか妙に心に残ったんですよ。「他人の家でこんなに良くしてもらうことってあるんだな」って。

そのときに、なんとなく思ったんです。「このままじゃダメだな」って。でも、じゃあ何を目標にするかっていうと、全然思いつかない。勉強もしてなかったし。それで、なぜかその秋田の山奥でふと、「山奥の医者になろう」って思ったんですよ。今思うと変な話なんですけどね。

インタビュアー

山奥の医者、ですか。

A先生

そう。なんかね、「無医村みたいなところで医者をやる」っていうイメージが浮かんできて。

そういう場所だったら、このだらっとした自分でも、人生を立て直せるんじゃないかって。不良から再生するための「山奥の医者」みたいな感じですね。だから高校1年の終わりくらいに、「医学部に行こう」って決めたんです。

ただ、当然ですけど勉強は全然してない。だから親に「浪人させてくれ」って頼みました。うちは国公立じゃないとダメだったので、関東圏の大学を考えながら、とりあえず1年受験勉強をしてみようって。そしたらですね、山形の大学に受かって。

インタビュアー

そこから医学生としての生活が始まるんですね。

A先生

そうなんです。でもね、入ってすぐに気づくんですよ。「山奥の医者コースなんて、どこにもない」って(笑)。

 

2章 本で出会った「家庭医療」——ようやく見つけた山奥の医者コース

医学部に入ったA先生は、ようやく自分の人生の目標に近づいた——はずでした。
しかしそこで待っていたのは、思いもよらない現実でした。

インタビュアー

大学に入ってからは、最初に思い描いていた「山奥の医者」という道に進めそうだったんでしょうか。

A先生

いや、それがですね……入ってすぐに言われたんですよ。「そんなコースないよ」って(笑)。当時の大学はまだ新設校で、専門医を育てるので精一杯みたいな時代だったんですね。僕が13期生くらいだったかな。

先輩たちに相談すると、「まず消化器とか循環器とかの専門医になって、10年20年やってから田舎に行けばいいじゃない」って言われるんです。昔ながらの“臓器別専門医から地域へ転向”というルートですね。でも、自分としてはそれがどうしてもピンとこなかったんです。というのも、僕は最初から「山奥で医者をやる」って決めて医学部に入ってきてるんですよ。なのに、その道がない。なんかこのままだと、またグレちゃうんじゃないか……みたいな。ちょっとそんな不安もありましたね。

インタビュアー

そのときはどうやって道を探されたんですか?

A先生

図書館ですね。今ならネットで検索できますけど、当時はそれがないので。新聞とか本とか、そういうのをひたすら調べてました。医学部の2年生か3年生くらいのときかな。そこで一冊の本に出会ったんです。

アメリカの家庭医の教科書を、日本の先生が翻訳した本で、タイトルは「プライマリーケア」だったと思います。原著者は有名な家庭医の先生で、その本の中にこういう医者の姿が書かれていたんです。3年ほどの研修を受けて、地域や離島に出ていく医師」っていうモデル。

それを読んだ瞬間に思いました。「あ、これだ」って。

インタビュアー

まさに探していたものだったんですね。

A先生

そうなんですよ。それまで自分がぼんやり思い描いていた「山奥の医者コース」が、その本の中にははっきり書かれていた。しかも欧米では1960年代くらいから専門分野として確立していて、ちゃんと研修プログラムがある。だから最初は、「日本の先生たちは知らないだけなんだな」って思ったんです。

その本を片手に、山形で自分で研修を作ろうとしてたんですよ。実際、学生のうちから県立病院の院長先生に会いに行って、「この本に書いてあるような研修をさせてもらえませんか」って相談したりしてました。内科、小児科、整形外科を回りながら、外来もやって、地域にも出て……本に書いてあるような研修を、6年くらいかけて自分で作ろうと思ってたんです。でも、その院長先生も意外と乗り気で、「いいよ、やったらいいじゃない」って言ってくれて。だから、「よし、これで山奥の医者になれる」と思ってたんです。

インタビュアー

それでも最終的には別の道を選ばれるんですよね。

A先生

そうなんです。ちょうど医学部4年生くらいのときだったかな。医学界新聞に、ある記事が載ったんですよ。岡山のある大学が、「家庭医の育成を始めます」っていう記事。アメリカ方式の研修で、きちんと訓練した家庭医を地域に送り出す——そんな内容でした。それを読んで思いました。「ここだ」って。

山形で一人でやるのも面白そうだけど、やっぱりモデルがある場所で学んだほうがいいんじゃないか。それで見学に行ったんです。岡山まで。

インタビュアー

実際に行ってみてどうでしたか?

A先生

向こうの先生たちに「君はここで研修しないとダメだ」って。「山形に戻ったら、結局消化器内科医で終わるぞ」とか、言われて。「鉄は熱いうちに打てだから、卒業したらすぐ来なさい」って。

それで悩みましたね。でも、そこにはアメリカで家庭医の訓練を受けてきた先生がいたんです。その先生を見て、「あ、この道は本当にあるんだ」って思えたんですよね。山形では見たことがなかった医師のスタイルだった。それが、すごく大きかったですね。

 

3章 「この道に行くなら、今だ」——直感で飛び込んだ岡山、そしてアメリカへ

岡山のプログラムを見学したA先生は、「ここだ」という感覚を強く抱きます。しかし、その決断は決して軽いものではありませんでした。そこには、人生の大きな選択も伴っていました。

インタビュアー

岡山のプログラムに進むと決めたとき、迷いはありませんでしたか?

A先生

いや、迷いはありましたよ。一番大きかったのは、今の妻とのことですね。その頃、妻は同じ某大学の学生で、山形に残る予定だったんです。僕も最初は山形で研修するつもりだったから、向こうはもう就職まで決まっていた。そこに僕が急に「岡山に行くかもしれない」って言い出したわけです。もうこれは、「行くのか、別れるのか」くらいの話になりますよね。

インタビュアー

かなり大きな決断ですね。

A先生

そうですね。でも最終的には、卒業直後に結婚して一緒に岡山へ行くことになりました。

ただ、僕自身は進路については割と直感型なんですよ。最初の「山奥の医者になろう」というときもそうでしたけど、「これだな」と思うと、結構そのまま走っちゃうタイプで。岡山のプログラムを見たときも、「自分がやりたい医療に一番近い場所だな」っていう感覚があったんです。

インタビュアー

その「やりたい医療」というのは、やはり最初の「山奥の医者」というイメージにつながっているんでしょうか。

A先生

そうですね。全部つながってると思います。

僕の中で大事だったのは、「ちゃんと訓練を受けて地域に出る」ということだったんですよ。当時、日本ではよく言われていたのが「専門医になってから田舎に行けばいい」という考え方でした。でも僕には、それがどうしても納得できなかった。「適当に行っても何とかなるよ」みたいな感じがして。自分としては、むしろ逆で、

ちゃんと準備して、実力をつけてから地域に行きたいと思っていたんです。その意味で、岡山のプログラムは、日本で初めてその考え方を実現しようとしている場所だった。しかも、そこには自分と同じような志向を持った人たちが全国から集まっていたんです。そういう人たちが集まって「家庭医療をやりたい」っていう熱量で学んでいる場所だった。それがすごく魅力的でしたね。

インタビュアー

研修を始めてからは、どんな時間でしたか?

A先生

すごく贅沢な研修だったと思います。

いろんなバックグラウンドの先生が指導してくれて。アメリカ帰りの先生、カナダ帰りの先生、自治医大の先生……それぞれが外来終了後にカルテを見ながらフィードバックしてくれる。

ただ、当時はまだ制度も整っていない時代だったので、「本当にこれで家庭医になれるのかな」

という不安はありました。先輩も少ないですしね。だから途中で思ったんです。「一回、本場を見に行こう」って。

インタビュアー

それがアメリカ留学につながるんですね。

A先生

そうです。ちょうど3年上の先輩が、アメリカの家庭医レジデンシーに合格したんですよ。それを見て、「身近な人ができるなら、自分もできるかもしれない」と思ったんですね。それで卒後6年目から、3年間アメリカの家庭医研修に行くことになりました。

インタビュアー

アメリカで学びたいと思った理由は何だったんでしょうか。

A先生

大きく2つありました。

1つは、自分が受けてきた日本の研修がどのくらい通用するのか知りたかったということ。

もう1つは、家庭医療の概念を本場で体験してみたかった

ということですね。

特に興味があったのが「行動科学」と「家族志向のケア」でした。患者さんを個人として見るだけじゃなくて、

家族という単位で理解する医療ですね。それが僕にとってはすごく大事なテーマになっていきました。

この頃から少しずつ、「自分が山奥で医者をやる」というよりも、「この分野を次の世代につなげていきたい」という気持ちが出てきた気がします。

 

4章 「一人の山奥の医者」から「次の世代へ」——地域で育てる家庭医療

アメリカでの研修を終えたA先生は、日本へ戻ります。
当初は大学で教育に関わりながら将来を模索していましたが、やがてある地域に根を下ろす決断をします。そこが、人口5000人ほどの小さな町、X町でした。

インタビュアー

アメリカから帰国されたあと、今の地域に来られたんですよね。

A先生

そうですね。アメリカから戻って、最初は1年半くらい大学に残って教育をしていました。でもやっぱり、自分の中では「地域で診療するフィールドを持たないと、家庭医にはなれない」という感覚があったんです。ちょうどその頃、岡山県の端のほうにあるX町という人口5000人くらいの町に、ファミリークリニックのサテライトができることになって。そこに行くことになりました。神奈川出身の自分と、山形出身の妻が、なぜ岡山にいるのかとよく言われるんですけど。でも、ここに来たことで自分が思い描いていた家庭医療を実践できる場所ができたんですよね。

インタビュアー

実際に地域で診療してみて、どうでしたか?

A先生

すごくやりやすかったですね。X町は人口5000人くらいの小さな町なので、医療資源は多くないんです。でもその分、0歳から100歳まで全部診るという家庭医療のスタイルが自然に成立するんです。都会だと、隣に小児科があって、隣に整形外科があって、患者さんもそっちに行きますよね。でも田舎だと、「先生、これも相談していいですか」って、いろんなことを持ってきてくれる。だから、家庭医療の「包括性」という意味では、すごくわかりやすい環境なんですよ。

インタビュアー

家族志向のケアも、そこで実践されていったんですね。

A先生

そうですね。僕が特に大事にしてきたのは、「患者さんを家族の中で理解する」という考え方でした。それを実践するために、電子カルテに「家族図」を入れたんですよ。当時はまだ電子カルテがほとんど普及していない時代でしたけど、メーカーにお願いして、「家族図が書けるカルテを作ってくれたら導入します」

って言ったら、本当に作ってくれて。上3世代、下3世代まで入る家族図がカルテの中で見えるようになりました。これができたことで、家族単位で患者さんを理解する医療がかなり具体的に実践できるようになったんですよね。

インタビュアー

一方で、教育も続けてこられましたよね。

A先生

はい。最初は診療所一つだけだったんですけど、少しずつ研修の仕組みを作っていきました。病院と連携して、地域のいくつかの医療機関を回りながら研修できるプログラムを作って。全国から研修医を募集するようになりました。正直言うと、「こんな田舎に人が来るのかな」と思いながら募集していたんですけどね。でも、毎年1人か2人、多い年は3人くらい来てくれて。それで気がついたら、もう25年くらい続いています。

インタビュアー

改めて振り返ってみて、A先生にとってよかったと思うことは何でしょうか。

A先生

一番はやっぱり、自分が思い描いていた医療を実践できるフィールドを持てたことですね。地域で診療しながら、若い先生たちと一緒に学ぶ。ある意味、今は「家庭医学校の校長先生をしながら、自分も家庭医をやっている」みたいな感じですね。もちろん、ここまで来られたのは自分一人の力じゃなくて。仲間がいたからこそだと思っています。

インタビュアー

最後に、これから取り組みたいことはありますか?

A先生

今一番考えているのは、次の世代へのバトンタッチですね。これまで自分が引っ張る形でやってきましたけど、もう僕も60歳に近いので。この地域で「ここで家庭医療をやりたい」と思う人たちがリーダーになって、仕組みを回していけるようにしたい。それがこれからの課題かなと思っています。家庭医療って、都会ではなかなかできない研修も多いんです。だからこそ、「この地域で学びたい」と思ってもらえる魅力をどう作るか。人の流れ、経済の仕組み、そしてリーダー育成。その3つを整えて、次の世代にバトンを渡していきたいと思っています。

 

まとめ

「山奥の医者になろう」

高校時代、人生を立て直すために思いついたその言葉は、やがて家庭医療という専門分野と出会い、地域で医師を育てるキャリアへとつながっていきました。

一人の医師として地域で診療すること。
そして、次の世代の医師を育てること。

その二つを重ねながら、A先生は今も「山奥の医者コース」を未来へとつなげています。​​

迷いながら歩んだ総合診療の道──後輩たちが安心してこの道に進んでいいと思える世界をつくりたい

導入

総合診療に興味があっても、「その先のキャリアが見えない」と感じる若手医師は少なくありません。今回お話を伺ったA先生も、かつては同じように迷いの中にいました。周囲の反対、専門選択への揺れ、そして人生の転機。そうした時間を経て、今A先生は「総合診療のキャリアを見えるものにしたい」と語ります。その歩みを伺いました。

第1章 「総合診療はやめたほうがいい」と言われた頃

インタビュアー:A先生は自治医大をご卒業後、地元に戻られて初期研修を経たのち、3年目から地域の病院で勤務されたんですよね。この頃は、もう総合診療に進もうと決めていたんでしょうか。

A先生:総合診療に大きな魅力を感じていましたが、実は、臨床研修中には進路を決められませんでした。もう10年以上前の話しですが、まだ“総合診療”という言葉も十分に浸透してなかった時代でした。同僚や先輩から「総合診療って何してるかわからない」「やめたほうがいい」とかなりストレートに反対されました。

インタビュアー:その反対は、かなり大きかったですか。

A先生:大きかったですね。当時は全員が地元大学の専門科医局に入局するのが当然という流れが強く、出身大学の先輩や所属施設の指導医を含めて、自分の周りの医師ほぼ全員から反対されました。これだけ反対されると、自分の中に「総合診療がいい」という気持ちはあるけど、「でも本当にそれでいいのかな」という揺れをずっと抱える状態でした。

インタビュアー:その中で、どうやって今の道につながる一歩を選ばれたんですか。

A先生:自分で選び取ったというより、 「偶然」だったと感じています。3年目の派遣先は小さい病院でしたが、自前で内科のプログラムと家庭医療のプログラムを運営していました。特に深い考えは無く、どうせその場にいるなら取れる資格は取っておこうという軽い気持ちで専攻医になりました。医局に無所属のまま臨床研修を終えることは当時としては珍しく、この時も反対されました。ただ、「総合診療が何なのか」を理解できておらず、他に明確なやりたいことがあったわけでもない状態で、納得できないまま決断するのが出来なかったのだと思います。その中でも、「完璧に確信できてから進む」じゃなくて、「迷っていても、とりあえず接点のある場所に身を置く」ことが、その先のキャリアに繋がったのかもしれません。

 

第2章 「ここじゃない場所」への憧れと、「ここでできること」への手応え

インタビュアー:その後、その病院での勤務中に、現在のご所属である南奈良総合医療センターの立ち上げに関わっていかれたんですよね。

A先生:そうですね。地域の病院で働き始めてすぐ、その病院も含めた医療再編の話しが具体化されました。新しい病院ができる流れになり、その立ち上げに大きく関わらせてもらいました。振り返ると、「用意されたレールにただ乗っていた」というより、その時々で自分にできることを見つけ、開拓していった感じですね。

インタビュアー:ただ、先生は当時、今の場所にずっと残るつもりだったわけではなかったんですよね。

A先生:その場所で自分が十分に成長できるかすごく不安でした。海外留学とか、教育資源が豊富な都会に行くなど、違う場所に行かないと見えない景色があるんじゃないかと思い込んでしまっていて、当時は義務年限がある中でも、どうにかして外に学びに行けないかとずっと考えてました。

インタビュアー:その迷いは、かなり長くあったんですか。

A先生:ありました。実際、「全身を診るなら感染症科も良いのでは」というお話しをいただき、キャリアの途中では感染症内科で学ばせてもらったり、耐性菌の研究に関わらせてもらつ時期もありました。学問として感染症内科は面白かったです。しかしそこに関わってみて、自分が本当に向き合いたいのは菌や病気そのものじゃなくて、その人の生活や人生を含めた“人そのもの”なんだと気づきました。全体像を把握するとか、暮らしの中で支えるとか、そういうところに関わりたいだなという感覚を自覚出来たことは、キャリア選択のうえでかなり大きかったと思います。

インタビュアー:外に出たい気持ちと、今いる場所でできること。そのあいだで揺れながらも、少しずつ今の立ち位置が見えてきた。

A先生:そうですね。一般的に理想とされる恵まれた学習環境を与えらなくとも、今いる場所でも工夫次第で学びに溢れた自分にとっての最高の学習環境を作ることができる。そう思えるようになってから、景色が変わった気がします。そこは自分の中で大きな転換点だったかもしれないですね。

 

第3章 メンターは「同じ場所」にいなくてもいい

インタビュアー:義務年限のなかで働きながら、自分の学びやキャリアを広げていくのは難しさもあったと思います。その中で、先生が大切にしていたものは何だったのでしょうか。

A先生:「人とのご縁」です。これは本当に大きかったと思います。キャリアはある程度は計画できると思いますが、結局は「誰に出会うか」で大きく変わると感じています。私の場合も、いくつかの出会いがあって、そこから視界が一気に開けた感覚がありました。

インタビュアー:先生のお話しのなかでも、いくつかの印象的な先生方との出会いをご紹介いただきましたね。

A先生:そうですね。例えば海外で出会った「診療所と病院など規模感の違う施設を行き来しながら活躍する総合診療医」の先生から大きな影響を受けました。また、キャリアの早い段階で出会った師匠にあたる総合診療医がいて、悩んだ時にはいつも色々と相談させてもらってきました。もちろん、全部言われた通りにするわけではないですが、先を歩んでらっしゃる信頼できる人に相談できる環境は、すごく大事だと感じています。

インタビュアー:ただ、義務年限があると、同じ施設で長く一緒に働くというのは難しいこともありますよね。

A先生:そうなんです。そこで、私は「斜めの関係」という考えかたを大切にしてきました。それは、働く場所と、教えてもらう人の場所は、必ずしも一致させなくてもいいという考え方です。例えば余暇を利用して会いに行ったり、例え数時間でもその先生の臨床現場を見せてもらってご指導いただいたり、勉強会に参加させてもらったり。病院外で得た学びを持ち帰って、自分の職場で試してみる。わからないことがあればメールなどで教えてもらう。そんな形で、義務年限の中でも少しずつ学んでいました。

インタビュアー:自分から会いに行くんですね。

A先生:そうですね。書籍を読んで「この先生に会ってみたいな」と思ったら、学会で探したり、直接メールしたり。いま思うと、大胆だったかもしれません(笑)。でも、そうやって出会えた先生方から学んだことを、自分の現場に持ち帰って実践する。キャリアの若いうちは、それを繰り返してきました。働く場所は変えられなくても、自分の学び方は変えられる。その感覚をしっかり掴んだことで、自分のキャリアを主体的に作っていけるようになった気がします。

 

第4章 総合診療のキャリアを「見えるもの」にしたい

インタビュアー:ここまでのお話を聞いていると、先生ご自身が迷いながらもキャリアを作ってこられた印象があります。今、総合診療に関わる中で、これから取り組みたいことはありますか。

A先生:いまやりたいことは「学問としての総合診療の全体像」や「総合診療医の成長の仕方」など、まだクリアになっていない部分を見える化することです。総合診療に興味を持ってくれる人は一定数いらっしゃるのですが、「総合診療が何をしているかわからない、どう成長しどんな医師になれるのかが十分にクリアになっていない」という現状が、進路として選択することの妨げになっていると思います。

自分自身も若い頃はすごく迷いました。総合診療がいいなとは思っていたけれど、「それって具体的に何をする医者なのか」「その先にどんなキャリアがあるのか」を、うまく説明できなかったんです。だからこそ今は、「こういう学び方があって、こういう成長の仕方があるんだ」という道筋を、できるだけわかりやすく示したいと思っています。

インタビュアー:それが、先生が取り組まれている論文や執筆にもつながっているんですね。

A先生:そうですね。多様に見える総合診療医の仕事には実は一貫性があり、ロジカルに説明できる部分が多いのですが、外から見るとすごく曖昧に見えることが多いんですよね。だから、総合診療医が何をしているのか。どういう能力が必要で、どういう学び方をしていくのか。そういうものを整理して言葉にしていきたいと思っています。「総合診療の道に進むと、こういう景色があるんだ」ということが見える化されれば、安心して総合診療を選べる人が増えると思っています。

インタビュアー:まさに、これから総合診療を目指す人たちのための道づくりですね。

A先生:そうですね。自分が感じた余計な苦労を後輩は感じなくて済むようにすることが、学問領域としての発展にもつながると感じています。もちろん、総合診療を一つの型に当てはめたいわけではないんですが、少なくとも「最初の一歩」は、もう少し踏み出しやすくしたい。

何を学べばいいのか、どこから始めればいいのか、何が総合診療医の共通項なのかが見えるようにしたいんです。その先は、それぞれが好きなように広がっていけばいいと思っています。若い世代には、僕らがまだできていないことを、どんどんやっていってほしい。そのための土台を、少しでも整えたいと思っています。

 

編集後記

「総合診療って何をする医者なんだろう。」

そして、

その先にどんなキャリアがあるんだろう。

そう思ったことのある医学生や若手医師は、きっと少なくないのではないでしょうか。
今回お話を伺ったA先生も、かつては同じように迷いの中にいました。周囲から「総合診療はやめた方がいい」と言われたこともあり、別の専門を考えた時期もあったといいます。

それでも、さまざまな出会いの中で少しずつ自分の進む道を見つけ、今は「安心して総合診療の道に進んでいいと思える世界をつくりたい」と語ります。

印象的だったのは、「場所が変わらなくても、学び方は変えられる」という言葉でした。環境や制度の制約があっても、人とのつながりや学び方次第でキャリアは形づくられていく。A先生の歩みは、そのことを静かに教えてくれているように感じました。

総合診療のキャリアは、まだ十分に「見えるもの」になっているとは言えないかもしれません。だからこそ、これからこの分野に進む人たちが、その姿を少しずつ描いていくことになるのだと思います。

もしこの記事を読んで、「総合診療もいいかもしれない」と少しでも思えたなら。
その一歩が、これからの総合診療の未来を形づくっていくのかもしれません。

「降ってきたもの」を拾いながら、自分の道になっていった――迷い続けた家庭医が、児童精神へとにじむように近づくまで

地方のクリニックで家庭医として働きながら、気づけば不登校やメンタルヘルスの相談を多く引き受けるようになっていたA先生。 

専門医を取ったあと、「このままでいいのか」という感覚と、「でも次に何を選べばいいのか分からない」という揺れのあいだで、何度も立ち止まりながら歩いてきました。今回のインタビューでは、そのキャリアの表面ではなく、選択のたびに生まれていた葛藤や、心の動きを丁寧にたどります。 

1章 「なんとなく、ここまで見えた」――専門医取得後に訪れたプラトー 

インタビュアー:まず最初に、専門医を取得した後の時期について伺いたいです。専門医1年目くらいから、どんなふうに次を考えていたんでしょうか。 

A先生:うーん……僕の中では、わりと早い段階から「このままずっと同じではいられないかもしれない」って感覚があったんですよね。米国のオスラー先生の「平静の心」で記載されていた内容ですけど、「内科も5年やると一段落して、変化が必要になる」みたいな言葉が、ずっと頭のどこかに残っていて。実際、自分も専攻医の3年間を終えて、専門医を取って、スタッフとして半年、一年とやっていくなかで、だんだん全体像が見えてきたんです。 

見えること自体は、悪いことじゃないんです。患者さんとの関係も深まってきて、「先生がいてくれてよかった」と言ってもらえることも増える。外来も充実している。家族背景を踏まえて関わることも好きで、家族面談も意外と得意だなって思えていた。複雑な社会的背景のある人も、僕はそんなに苦じゃなかったんです。むしろ、そういう人のほうが面白いとすら感じていました。 

でも、その一方で、困る場面がどんどん減っていったんですよね。皮膚科なら皮膚科で本を何冊も買って、読んで、まとめて、知識を体系化していく。そうやって「このパターンならこう動ける」が増えていくと、不安が減る。で、僕って不安があるから頑張れるタイプなんです。逆に、満足すると動けなくなる。だから、できることが増えて洗練されていくほど、少しずつ面白くなくなっていったんです。 

たぶん、外から見ると順調なんですよ。でも自分の中では、満たされているはずなのに、どこか止まってしまった感じがあった。「家庭医としてやれてる。でも、その先は?」って。そこが、専門医を取る前後からずっと、静かに始まっていた問いだった気がします。 

 

2章 「次、どうしよう」が見えないまま、興味だけが少しずつ偏っていった 

インタビュアー:皆さん、やっぱりその時期に「次どうしようか」って悩むと思うんです。教育に行く人もいれば、また別の領域に進む人もいて。先生はそのとき、何かはっきりした次の一手があったんでしょうか。 

A先生:いや、それが全然なかったんですよね。家庭医としてやれている感覚はある。でも、じゃあその先に何を目指すのかって聞かれると、あんまりピンとこない。教育か、と言われても、当時はそこまで強くは思えなかったし、研究という感じでもなかった。だからすごくぼんやりと、「島根に帰ろうかな」くらいだったんです。僕、もともと島根出身なので、場を変えたら何か変わるのかな、みたいな。そういう発想のほうが強かったですね。 

でも、面白いのは、自分では「まだ決めてない」と思っていても、日々の診療のなかで、興味の偏りって勝手に出てくるんですよ。もともとメンタルヘルスの領域は好きだったし、家族調整も嫌いじゃなかった。そうすると、なぜかそういう患者さんが集まってくるんです。不登校の子とか、しんどさを抱えた若い人とか、「ちょっとこの人、普通の外来の枠では収まらないな」みたいな人たちが。 

外来の枠としては別に用意されていないんですよ。でも平日の診療最後や、土曜の外来の真ん中に 、そういう人が一人、二人、時には四人くらい入り込んできて、他の患者さんも診ながら、なんとか20分、30分ひねり出して対応する、みたいなことをしていました。「すいません、押してます」って思いながら。でも、しんどいかというと、そこは不思議とそうじゃなかった。むしろ、そっちのほうが面白かったんです。 

特に不登校の子たちって、最初は表情も硬いし、親御さんも疲れ切っていたりするんですけど、少しずつ元気になっていくんですよね。学校に戻るとか戻らないとか、そういう分かりやすい話じゃなくても、顔つきが変わるとか、言葉が増えるとか、ちょっと笑うようになるとか。ああ、こういう変化、嬉しいなって思ったんです。その感じが、自分の中でじわじわ大きくなっていった。 

たぶん当時の僕は、「児童精神をやりたい」とまでは言語化していなかったんです。でも、診療の手触りとしては、確実にそっちに引っ張られていた。家庭医の外来をやりながら、気づいたら心のしんどさを抱えた人に時間を割いていて、その時間のほうに、自分の気持ちが動いていたんですよね。 

だから、きれいに「次はこれ」と決めたというよりは、日々の診療の中で、自分が何に心を動かされるのかが、少しずつ浮かび上がってきた感じなんです。自分ではまだ迷ってるつもりなんだけど、実は身体のほうが先に反応していた、みたいな。そういう時期だった気がします。 

3章 「降ってきた役割」に巻き込まれながら、燃え尽きていった時間 

インタビュアー:その流れの中で、先生のキャリアには「降ってきた仕事」というキーワードが出てきますよね。 

A先生:そうですね。実際、僕のキャリアって「自分で選んだ」というより、わりと降ってきたものを拾いながら進んでいる感じなんですよ。 

専門医プログラム修了したタイミングで、クリニックの上のポジションにいた先生が辞めることになったんです。本当は、その先生と一緒にクリニックを盛り上げようって思っていたんですよ。だから、僕の中では「これから一緒にやろう」という感覚だったんですけど……いなくなっちゃった。 

インタビュアー:やろうと思ったら、いなくなった。 

A先生:そうなんです。で、気づいたら「じゃあ次はお願いします」みたいな感じで、僕のところに仕事が降ってきたんですよね。もちろん「やりません」と言うわけにもいかないし、クリニックを放り出すこともできない。だから、もうやるしかない。 

でも僕、新しいことは嫌いじゃないんですよ。むしろ好きなんです。だから「じゃあマネジメントも勉強しようかな」って思って、MBA大学院にお試しで参加してみて、教科書を読んだり 、組織経営の本を読み漁ったりして。スタッフとの関係の作り方とか、クリニック経営って何なのかとか、とにかく勉強しました。本を買う癖は昔からあって、また山のように積み上がりましたけど(笑)。 

その頃は、かなり本気でしたね。地域の医療機関を全部調べて、500メートル圏内のクリニックを全部プロットしたりして。 

「この地域の人口はこう変わる」「高齢者は増えるけど小児は減る」「じゃあこのクリニックはどこに強みを持つべきか」って、スライドまで作って提案したりしていたんです。 

インタビュアー:それ、かなり情熱的ですよね。 

A先生:いや、本当にそうだったと思います。理事長に直談判したこともありましたし、スタッフ全体の前でプレゼンしたこともあります。医師の働き方の不公平感も気になって、「全部データ化して標準化できないか」とか、関数組んで外来の待ち時間を分析したりとか。 

今思うと、ちょっとやりすぎですよね(笑)。 

「現場のスタッフ一人ひとりの声を大切にしたい」という思いが強かった分、経営層とは徹底して議論を重ねることも多かったです。組織としても大きな変革期にあり、お互いに「より良くしたい」という強い情熱がぶつかり合いやすい時期でもありました。 

専門医2年目の夏、クリニックの管理に携わって1年ほど経った頃でしょうか。現場の熱量と、変革の中にある組織構造との間で、自分一人の力では埋めきれない距離感を感じるようになりました。 

それからさらに1年、二番手として組織全体を見渡す役割を担いましたが、深く関われば関わるほど、「この場所で自分が尽くせるエネルギーは、すべて出し切ったのではないか」という思いが強まっていきました。最後は、ある種の燃え尽きのような感覚と、一つの大きな役割をやり遂げたという区切りの気持ち、その両方が入り混じっていましたね。 

 

家庭医として外来を続けること自体にも、あまりワクワクしなくなっていたし、教育にエネルギーを注ぐ気力も、そのときはなかった。やることがなくなった感じがしてしまったんです。だから、「もう島根に帰ろうかな」と思っていました。もともと、いつかは帰るつもりだったので。 

場所を変えたら、何か変わるかもしれない。そんなふうに、少し力の抜けた状態で考えていた時期でした。 

4章 「降ってきた道」を拾い続けた先で、もう一度見えてきた家庭医 

インタビュアー:そのタイミングで島根に帰ろうと思っていたんですね。 

A先生:そうですね。クリニックのために自分ができることは、もうやり尽くしたのではないかと思うようになり、自分自身の成長も実感しにくくなりました。 だから、場所を変えようと思ったんです。島根に帰って家庭医をやる。それくらいのイメージでした。 

ただ、そのときも完全に全部を手放したわけじゃなくて、「メンタルヘルスはもう少しやりたいな」という気持ちは残っていたんです。すると今度は、また不思議な形で話が降ってくるんですよ。「心療内科の部門を立ち上げるからやってみないか」って。 

僕は基本、「言われたらやってみる」タイプなので、「じゃあやります」って引き受けました。完全予約制の外来で、家庭医が担うメンタルヘルス領域みたいな形です。そこでは、子どもも診るし、大人も診る。小学生から高校生まで、不登校の子たちも来るし、若い人のメンタルの相談も来る。半分は子ども、半分は大人、みたいな外来になっていきました。 

それが……面白かったんですよね。 

気づけば、そこを二年くらいやっていました。上司からは「残ってくれないか」と言ってくれてたんですが、もともと2年くらいを区切りに島根に帰ろうかとも思っていたので、またまた島根に帰ろうかと思っていました。 すると今度は「週一回、精神科の病院に勉強に行ってみないか」という話が出てきました。今働いている精神科医療センターです。 

僕は最初から精神科医になろうと思っていたわけではないんですよ。地方だと児童精神を学べる場所がかなり限られていて。そこで、「総合医として入院患者さんの身体面を診る医者として働きながら、精神科の先生方の考え方を勉強したらどうか」と精神科医療センターの院長から直々にお話をしていただくことができ、総合医として単科精神科で週1働き始めました。 

1年ほど働きながら、だんだんと児童精神についてもっと深く勉強したい、地域の子どもたちにできることをやりたいと思うようになりました。そのときに院長から言われたんです。「外来だけじゃなく入院もやった方がいい」と。 

……僕、基本言われたことはやるので、「じゃあやります」って(笑)。 

気づいたら入院も診て、精神科医のチームの中で働いて、精神科医としての視点も少しずつ身についてきた。振り返ると、ここでも自分が選んだというより、周りの人が道を差し出してくれた感じなんですよね。 

でも、それをただ受け身で流されていたわけでもなくて。振り返ってみると、僕はずっと「場」を選んでいたんだと思うんです。 

自分が学べる場。患者さんと出会える場。刺激がある場。 

そこに入ることだけは、わりと意識していました。 

 

インタビュアー:先生の話を聞いていると、「降ってきたものをやる」という言葉が印象的です。でも、それって最初からそういう生き方だったんですか。 

A先生:いや、全然そんなことないです。むしろ、学生の頃からずっと不安の強いタイプでした。家庭の事情もあって、悩むことも多かったですし、「消えてしまった方が楽かもしれない」と思うこともあった。30歳くらいまで、ずっとそういう感覚を抱えていました。 

初期研修の頃、患者さんの死に初めて直面したときも、かなり揺れました。肺炎で亡くなったおじいちゃんの顔、今でも覚えています。「自分の見逃しがあったんじゃないか」とずっと考えてしまって。そのあともいろんな出来事が重なって、休職と復職を繰り返す時期がありました。 

そのとき、たまたま信仰していた宗教の関係で合宿のようなものがあって、思い切って人生を振り返るために4か月のまとまった休職をとることにしました。そこで、ボランティアのような活動をしながら、ひたすら自分と向き合い続けた。 夜になると、ノートにずっと書いていました。「自分は何をしたいんだろう」って。 

そこでやっと、「やっぱり人を助けたいんだな」という感覚が自分の中に残っていることに気づいたんです。それと同時に、自分の人生を振り返ると、苦しいときには必ず誰かが助けてくれていた。だから今度は、自分が誰かの役に立てる側になりたいと思ったんですよね。 

そのときから、僕の中に一つの言葉が残っています。 

「はたらくということ=端楽。つまり、周りを楽にする」という言葉に出会いました 

周りの人が少し楽になるように働く。それが僕のモットーになりました。 

だからマネジメントも好きなんです。スタッフが楽しく働ける環境を作りたいし、患者さんが少しでも楽になるように関わりたい。そこに繋がるなら、降ってきた仕事もやってみようと思える。 

もちろん全部やるわけじゃないですよ。潰れたら意味がないので、線は引きます。でも、やってみないと分からないことも多いので、とりあえず一歩踏み出す。それを続けていたら、ここまで来た、という感じですね。 

 

インタビュアー:先生は一度、「家庭医じゃないな」と感じた時期もあったとおっしゃっていましたよね。でも今のお話を聞いていると、むしろ家庭医らしさが強くなっているようにも感じました。 

A先生:ああ、それはたぶん「家庭医とは何か」の定義が変わっただけなんです。 

昔は、家庭医ってクリニックで外来をして、訪問診療をして、という「診療の形」のことだと思っていました。でも、だんだん違うなと思うようになった。家庭医って、地域の健康をどう支えるかとか、予防とか、医療に来る前の人たちをどう支えるかとか、そういう視点も含めての仕事なんじゃないかって。 

精神科で働いてみると、病気を治療することの重要さも分かります。でも同時に、「医療に来なくてもよかった人」が医療に流れ込んでいる現実も見えるんです。児童精神の待機児童問題なんてまさにそうですよね。 

じゃあ、その手前で何かできる人が必要なんじゃないか。 

そう考えたとき、やっぱり自分は家庭医のマインドを持っているんだな、と思いました。だから今は、精神科医にはなれないけれど、メンタルヘルス領域、児童精神領域をサブスぺのような形で深めた家庭医の僕だからこそできる視点から、地域で子どもたちや家族のメンタルヘルスを支える場所を作れないかとか、予防の場を作れないかとか、そういう構想を考えてます。 

場所は固定して、やることは固定しない。 

それが、今の僕のスタイルです。 

 

編集後記 

「降ってきたものをやる」という言葉は、一見すると受け身のように聞こえるかもしれません。しかしA先生の話を聞いていると、その言葉の裏には、自分の興味や違和感を丁寧に言葉にし続けてきた時間があることに気づかされます。 

場に入り、出会い、揺れながらも、自分の問いを手放さない。 

その積み重ねが、いつの間にか一つのキャリアのかたちになっていくのかもしれません。 

 

「僻地の想いから総合診療の道へ──迷い、葛藤しながら築いた医師としての軌跡」

卒後年数: 8年目
所属: 鳥取大学医学部地域医療学講座
卒業プログラム: 鳥取の総合診療・家庭医療専門医を育てるプログラム


📖 経歴

  • 鳥取大学医学部 卒業

  • 公立豊岡病院 初期研修医

  • 鳥取の総合診療・家庭医療専門医を育てるプログラム 専攻医

  • 指導医・鳥取大学医学部地域医療学講座 助教・大学院生

🔹 現在の活動:

  • 臨床: 大学総合診療外来、地方病院の病棟・外来診療、在宅医療

  • 教育: 専攻医指導、医学生の臨床実習指導、地域枠教育

  • 研究: 大学院での質的研究

  • プログラム運営: 業務改善、リクルート活動


💡 キャリア選択において影響を受けたもの

幼少期〜大学入学前

私の実家が僻地にあり、幼い頃から「何らかの形でこの地に貢献したい」と考えていました。友人や親戚の病気がきっかけで医学部に入り、将来的には地域医療でこの地に貢献したいと思うようになりました。

学生時代

鳥取大学に入学後、先輩から学内の臨床推論サークルに誘われ、学外の勉強会(チーム関西、大阪どまんなか等)に参加するようになりました。またサークルの顧問だった地域医療学講座の先生方の指導の元、医学科6年次にはプライマリ・ケア連合学会学術大会でポスター発表を行ったり、イギリスの家庭医療クリニックへの見学をさせてもらい、総合診療・家庭医療の道を具体的にイメージするようになりました。

研修医時代

総合診療は第一志望でしたが、研修で学ぶ実臨床はとても興味深く、特に内科と総合診療科のどちらに進むのか悩みました。様々な指導医のアドバイスの中では総合診療医と内科医は視点や価値観が異なる」「10年後、どこで働きたいかをイメージしながら進路を決めると良い」という言葉が大きく影響しています。
最終的に、大学の教授が親身に話を聞いてくださったこと、同期が「プログラムを一から一緒につくろう」と言ってくれたことが決め手となりました。

専攻医時代

鳥取の総診プログラムの第一期生として、指導医や同期・後輩と手探りでプログラムを作ってきました。未熟さによる不甲斐なさや周囲との差を感じアイデンティティ・クライシスを感じたことも何度もありました。しかし家庭医としてレベルが上がり地域や病院で必要とされるにつれ、「先生に会えてよかった」という患者の声や、「一緒に働けてとてもありがたい」というスタッフの声が増え、私を支えてくれました。

専門医取得後

専門医取得後は指導医として、プログラムの教育・業務改善、リクルート活動、卒前・卒後教育に携わっています。自身が良い指導医となり、後進の成長を支えることに注力しています。


🌟 総合診療医・家庭医を選んでよかったと感じたエピソード

専攻医時代、何度も断酒に失敗していたアルコール依存症の患者を担当。当初は偏見を持っていましたが、信頼関係を築く中で患者の人生を知り、支えたいと強く思うようになりました。外来で行動変容アプローチを行い、断酒会や専門病院と連携し、半年後に断酒に成功。同時に院内で多職種勉強会を開催し、地域の依存症ネットワークにも参加。結果として病院の依存症対応を改善し、自身の成長にもつながる経験となりました。この事例を通して、長期にわたる医師患者関係の重要性や、地域医療における総合診療医の役割を実感しました。


🎤 後輩たちへ

「総合診療・家庭医療は、地域における“良医”になるための最短かつ再現性の高い道だと信じています。迷うことがあれば、ぜひ先人と語らってみてください。」

「地域医療の未来を創る家庭医—総合診療・在宅医療・教育・制度改革の実践」

所属・経歴

  • 卒後年数:20年目

  • 所属:頴田病院

  • 卒業プログラム:飯塚・頴田家庭医療プログラム

📌 略歴

  • 2006年 名古屋市立大学医学部卒業

  • 2008年 飯塚病院初期研修修了

  • 2011年 飯塚・頴田家庭医療後期研修プログラム修了

  • 2012年 頴田病院在宅専門医研修プログラム修了

  • 2022年現在

    • 飯塚病院総合診療科

    • 頴田病院総合診療科科長

    • 飯塚・頴田総合診療/家庭医療研修プログラム副責任者

    • 日本プライマリ・ケア連合学会理事

    • 日本在宅医療連合学会特任理事 九州支部

    • 日本専門医機構 総合診療専門医検討委員会 研修医・専攻医支援部会長

  • 2023年 九州大学大学院 医学系学府 医療経営・管理学専攻 在学中

🎓 資格

  • 日本プライマリ・ケア連合学会 家庭医療専門医・指導医

  • 日本専門医機構 総合診療専門医・指導医

  • 日本内科学会 総合内科専門医・指導医

  • 日本在宅医学会 在宅専門医・指導医

💡 キャリア選択において影響を受けたもの

学生時代

バスケットボール部の主将を務めながら、インターカレッジの学生ACLS勉強会の東海代表として全国を飛び回る。救急医を志望。

研修医時代

  • 1年目:救急目指して麻生飯塚病院にマッチング。めっちゃハードな研修を、苛烈(熱心?)な指導もいただきながらサバイブ。念願の救急もがんばったけど、施設から搬送される全介助の高齢者の蘇生をしていてモヤモヤ募る。

  • 2年目:地域研修で松口内科循環器科に行き、在宅医療を教えてもらう。末期がんの患者さんと介助者の妹さんのところに毎日訪問。指導医がオピオイドの調整をしており何もしていなかった(汗)が、来てくれるだけで感謝されることが不思議であった。これが『支える医療』なのか・・・?疑問を抱えながら大学のクラスメートであった福井先生がいる北海道家庭医療センターへ見学。草場理事長の診察をみてBPSモデルを教えてもらう。礼文島では松井先生に歓迎してもらい、島の住民を支える医療について習う。若い先生が在宅医療を、チームで丁寧なカルテを書いて実践していることでいいんではないかと思った。

  • JPCA冬季セミナーで藤沼先生が、『これからは高齢者が増え、包括的ケアのニーズは高まる』と言われており、需要もあるならこれだ!と決める。

後期研修・専門医取得後

  • 北海道家庭医療センターに行くか、飯塚に新設された家庭医療プログラムに行くか?自分がまだまだ急性期医療や専門的な疾患管理も学びたいと思ったのと、初期研修で迷惑をかけたので恩返しと、基本的につくるほうが好きなので、飯塚・頴田家庭医療プログラムへ。上司は井村先生と本田院長、先輩は茂木先生と大杉先生であった。まず、家庭医療の指導医がいない!ので、当時飯塚病院が契約したピッツバーグ大学の家庭医療学講座の指導医たちが年6回、1回10日間教えにくることに。当然、英語のレクチャーであり珍紛漢紛だが、とにかく『質問して理解できればいい』と、むりやり喋りまくったら、だんだん意思疎通ができるようになった。彼らの話や教え方は面白いので『ピッツバーグからの学び』というメールマガジンを書いて病院のウェブサイトや学会のメーリングリストに投稿していた。

 

  • 日本の家庭医療を拡大するための活動を開始。兄弟子、大杉先生と、『家庭医便利だけど少なすぎじゃね?』と気づき、『家庭医が日本の地域医療のインフラになるまで増やし続ける』という人生の目標を立ててしまう(JPCA冬季セミナー代表、若手医師部会代表)。

  • 葛西先生の紹介でRCGPのインターナショナルデベロップメントコース(グラスゴー)にいき、日本人英国GPである澤先生と出会い、先生の英国家庭医療愛に圧倒される。

  • 日英交換留学プロジェクト(初代)に選出され、ロンドンのGP Vikesh Sharmaとむっちゃ仲良くなる。彼らが自国の医療制度をすらすら話すところを聞き、日本の医療制度とそのスタンスを語れない自分が恥ずかしくなる。澤先生に、必ず日本の医療は俺たちがなんとかする と啖呵を切る。この時期、足元のピッツバーグ大学提携プロジェクトは佳境を迎えており、個々の家庭医療学のトピックだけでなく、指導の仕方を学んだりプログラムを運営したりするFD(Faculty Development)を教えてもらう。

  • 先輩であり、初代家庭医療センター長でもあった大杉先生が卒業校である藤田医科大学の家庭医療プログラムを立ち上げることとなり、自分がプログラムを率い、院長と病院の経営に責任を持つ立場を、教えてもらいながら引き受ける。
  • WONCA APR YDM代表としてアジア19カ国と連携し、家庭医療の発展に寄与。

現在の取り組み

  • 地元の頴田病院では在宅>外来>病棟センター長をローテーションしながら総合診療科の科長に就任し、院内の管理職の役割そのものから院長と形作っていく、そしてコロナに対応、慣れない不安を抑えながら患者と向き合ってくれる多職種と地域の医療介護者に改めて敬意を抱きつつ、診療の先頭に立ち、やったことはみんなでマニュアル化し、チームで提供できる体制を構築する。そうこうしているうちに家庭医療プログラムは大きくなり、そして総合診療専門研修が始まった。自プログラムは開業子弟の専攻医も多く、学ぶ時間が限られていることもあったので、総合診療に新家庭医療専門医を加えるかどうかなどはどっちも選べるようにして、在宅専門医プログラムものっけた。スタッフがだんだん増えてきて、現場の診療を少しずつお願いできるようになった。本田院長から、『大学に行ってみないか』と推していただき、九州大学大学院医学系学府医療経営・管理学専攻に社会人大学生として入学し、もうすぐ卒業予定である。


🌟 総合診療医・家庭医を選んで良かったこと

 なんといっても継続性。かかりつけの外来・在宅診療を16年続けているが、ほぼずっと診療させてもらっている患者さんもいる。お互い歳をとりながら、暮らしのことや家族のこと、そして健康状態について対応する。在宅医療に移行しお看取りした方も、気に入ってくださってご夫婦やお子さんたちと受診してくださる方もいる。家族ほぼ全員かかりつけになったときはガッツポーズである。あと、子供も診られるのがいい。健康診断ができるのもいい。元気な方々と、ふっと違うところでまた会ったりすると嬉しいものである。



 チーム医療。医療は社会保障の一部であり、制度・プレイヤー・土地ごとの風土性の世界は奥深い。自分だけでできることなど何一つなく、しかし自分の役割を識るようにして立ち回り、お互い情報交換して得られる成果もある。特にCOVID-19パンデミックは、本当に大変であり、多くの苦しみと悲しみを目にしたが、自分たちのポテンシャルを感じることもできた。次は災害医療にも備えておこうと思う。自分の考える家庭医療は、公衆衛生的危機にも逃げずにいなしながら対応できるくらいのものだと信じているし、必ず行動する!

 

自分と家族のこと。うちは子供が三人いて、多くの苦労を妻にはさせてきていて、今でも容赦なく怒られている。一方で、子供のこと、妻の体調、家族のライフイベントと関係性について自分ごととして学問と自分の家を照らし合わせながら、対処しようとしてきた(できているとは決して言えないのだが・・・要所は押さえているつもり)。家庭医療学は自分にも使えるということ。そして、後輩のスタッフ医や専攻医たちも、自らのライフワークや健康観、みなければならない家庭があり、それらと職場とプログラムの3者をどう噛み合わせるか、家庭医療学・マネジメント・FDの知見を駆使して取り組むことにはやりがいがある。

 

国のヘルスケアを考えられること。海外の家庭医と交流することは3つ。お互いの人となり/違うところ/変わらないもの である。特に医療制度なるものは、他国と比較しないと概要は掴めない。掴めてくると、なぜ自国の制度が変化していくのか、いわゆる外的要因を読める!?ようになってくる。風を読み、先手をうつ!

 

ぶっちゃけどこでも働ける。0歳から100歳。健康でも症状ありでも急変でも。昼でも夜でも休日でも。陸でも海でも空でも。どんなニーズや性好や文化をもっていても。どんな科や職種のみなさんとも連携して、診療できる、働ける。
食わず嫌いなどなく、食ってみて味を確かめ、調理を変更するのが家庭医の醍醐味である。。。。(と思う)。

 

⭐️『家庭医療には全教科の学問が必要』


・国語:相手に刺さる言葉選び
・算数:(スクリーニングや診断の)確率論と疫学統計
・理科:病態生理、解剖学・・・・・(医学前半だよね)
・社会:社会保障のしくみや、土地の文化、経済、政治にわたるまで、暮らしの知識
・英語:他国と交流し、自国や地元の鑑とするため

 

🎤 後輩へのメッセージ

2027年のJPCA学術大会の大会長をやらせてもらうのですが、『プライマリ・ケアのホップステップジャンプ』というテーマにしました。これはそのまま若手のみなさんへのメッセージになっていて


ホップ:自分と家族を支える、そのための心づもりと生活づくりと働き方


ステップ:患者と家族を支える、そのための基本知識と成人学修的実践

ジャンプ:研修プログラムの教育、医療機関の経営、二次医療圏の医療課題、はては国の医療や国際保健をも支えにいっちゃう


の順番にやっていこうというものです。


みなさんの未来 ≒  地域医療の未来です。 一緒に前に進みましょう!

若手医師のつながりを育み、地域医療と教育に貢献する

卒後13年目

🏥 経歴

専攻医時代は研修の傍ら、若手医師部会(現 専門医部会若手医師支援部門)や専攻医部会で若手医師同士のネットワークづくりに関わっていました。研修修了後も、学生・研修医のキャリア支援活動や委員会活動を学会内で続けています。

臨床面では、郡部の家庭医療診療所の副所長を務め、医師会活動や母子保健、校医、介護認定審査員、在宅ケア勉強会の企画など、地域医療に幅広く携わりました。その後、母校の大学教員として、家庭医療・総合診療の研修プログラム運営や卒前教育にも関わっています。


📖 キャリア選択において影響を受けたもの

中学・高校時代

医療の道に興味を持ち始めた頃、諏訪中央病院の鎌田實先生の『がんばらない』を読み、地域医療や社会の視点から健康・医療を考えることに魅力を感じました。

研修医時代

大学時代に家庭医療専門医になることを決意していましたが、初期研修先では「家庭医療なんて聞いたことがない」と言われることが多く、進路に迷いが生じました。そんな時、近隣の大学(母校ではない)で開催された「80大学行脚プロジェクト」の家庭医療勉強会を受講。講師の専門医の先生方と懇親会で進路相談をすることで、改めて家庭医療の道に進む決心を固めることができました。

専攻医時代

専門研修を開始して間もなく結婚し、子どもを授かりました。夫として父親としてワークライフバランスを大事にしたい一方で、臨床以外のことにも精力的に取り組みたい気持ちが高まりました。

当時、若手医師部会が専攻医を含めたネットワーキングを進めており、オンラインでの交流・活動が家事・育児と両立しやすいと感じて参加。未熟ながらも様々なチャンスをいただき、そこから学会活動や教育活動に積極的に関わるようになりました。


💡 総合診療医・家庭医の道を選んでよかったと感じた瞬間

家庭医の道を選ぶ前も、選んでからも「それって何?」「何の専門なの?」と問われたり、時にはネガティブな言葉をかけられることもありました。しかし、その分、自分の言葉で専門性や魅力を語る機会が多くなり、常に専門性を体現しようと考えるようになりました。

家庭医療学のコアである「患者中心の医療の方法」は、医療者としてのプロフェッショナリズムを高めることに直結し、自分自身の人生にも深みを持たせてくれています。

また、家庭医療を学ぶ中で培った「多角的な視点」「システムとしての認識」「メタ認知」といった洞察力は、人生や社会に対する向き合い方にも影響を与えています。妻や子どもとの関わり方、歴史や芸術の楽しみ方、自然や環境への関心なども、家庭医療の道に進まなければ異なっていたかもしれません。


🎤 後輩へのメッセージ

AIなどの技術が進み、医療も過渡期を迎えています。今の総合診療・家庭医療も、将来大きく様変わりする可能性があります。しかし、視野が広く、フットワークの軽いジェネラリストなら、次の時代もきっと乗りこなせるはずです!

あなたが魅せられたこの道の未来を信じて、ぜひ飛び込んでみてください!