「山奥の医者になろうと思ったんですよね。自分を立て直すために」
そう静かに語るA先生のキャリアは、最初から順風満帆だったわけではありません。高校時代の迷い、偶然出会った一冊の本、そしてまだ日本にほとんど存在しなかった家庭医療という道。
自分の人生をどう使うのか——その問いを何度も抱えながら、A先生は少しずつ「地域で生きる医師」という姿に近づいていきました。
まずは、その原点となった高校時代からお話をうかがいました。
第1章 「このままじゃまずい」—人生を立て直すための“山奥の医者”
インタビュアー
まず最初に、大学に入るまでの経緯から教えていただけますか。
A先生
そうですね。実は大学に入る前から、もう人生の方向はちょっと揺れていたんですよね。高校1年のときに、急に学校に行く気がなくなっちゃって。
普通の県立高校だったんですけど、朝は「行ってきます」って家を出るんだけど、学校には行かない。今で言う不登校に近い感じですかね。学校には「お腹痛いので休みます」とか適当に言って。割と自由な学校だったので、単位が落ちない程度に休みながら、だらだら過ごしてました。
そのうち、ちょっとずつ周りの友達も似たような感じになってきて。
タバコ吸ってみたり、アイロンパーマかけてみたり。不良ってほどじゃないんだけど、なんというか……だんだん“すれてくる”んですよね。「だるいよね」って言いながら、友達の家で時間をつぶしたりして。そんな生活を1年弱くらい続けてたんです。
でも、あるときふと、「このままだと、ろくでもない人生になるな」って思ったんですよね。仲間もみんな似たような感じだったから、将来のイメージが全然持てない。チンピラみたいな人生が待ってる気がして。
インタビュアー
そこから何かきっかけがあったんですか?
A先生
冬にスキーに行ったんですよ。その仲間たちと、秋田の山奥のスキー場に。友達のいとこの家に泊めてもらったんですけど、そこでその家族がすごく親切にしてくれて。親戚でもないのに、すごく温かく迎えてくれてね。それが、なんだか妙に心に残ったんですよ。「他人の家でこんなに良くしてもらうことってあるんだな」って。
そのときに、なんとなく思ったんです。「このままじゃダメだな」って。でも、じゃあ何を目標にするかっていうと、全然思いつかない。勉強もしてなかったし。それで、なぜかその秋田の山奥でふと、「山奥の医者になろう」って思ったんですよ。今思うと変な話なんですけどね。
インタビュアー
山奥の医者、ですか。
A先生
そう。なんかね、「無医村みたいなところで医者をやる」っていうイメージが浮かんできて。
そういう場所だったら、このだらっとした自分でも、人生を立て直せるんじゃないかって。不良から再生するための「山奥の医者」みたいな感じですね。だから高校1年の終わりくらいに、「医学部に行こう」って決めたんです。
ただ、当然ですけど勉強は全然してない。だから親に「浪人させてくれ」って頼みました。うちは国公立じゃないとダメだったので、関東圏の大学を考えながら、とりあえず1年受験勉強をしてみようって。そしたらですね、山形の大学に受かって。
インタビュアー
そこから医学生としての生活が始まるんですね。
A先生
そうなんです。でもね、入ってすぐに気づくんですよ。「山奥の医者コースなんて、どこにもない」って(笑)。
第2章 本で出会った「家庭医療」——ようやく見つけた“山奥の医者コース”
医学部に入ったA先生は、ようやく自分の人生の目標に近づいた——はずでした。
しかしそこで待っていたのは、思いもよらない現実でした。
インタビュアー
大学に入ってからは、最初に思い描いていた「山奥の医者」という道に進めそうだったんでしょうか。
A先生
いや、それがですね……入ってすぐに言われたんですよ。「そんなコースないよ」って(笑)。当時の大学はまだ新設校で、専門医を育てるので精一杯みたいな時代だったんですね。僕が13期生くらいだったかな。
先輩たちに相談すると、「まず消化器とか循環器とかの専門医になって、10年20年やってから田舎に行けばいいじゃない」って言われるんです。昔ながらの“臓器別専門医から地域へ転向”というルートですね。でも、自分としてはそれがどうしてもピンとこなかったんです。というのも、僕は最初から「山奥で医者をやる」って決めて医学部に入ってきてるんですよ。なのに、その道がない。なんかこのままだと、またグレちゃうんじゃないか……みたいな。ちょっとそんな不安もありましたね。
インタビュアー
そのときはどうやって道を探されたんですか?
A先生
図書館ですね。今ならネットで検索できますけど、当時はそれがないので。新聞とか本とか、そういうのをひたすら調べてました。医学部の2年生か3年生くらいのときかな。そこで一冊の本に出会ったんです。
アメリカの家庭医の教科書を、日本の先生が翻訳した本で、タイトルは「プライマリーケア」だったと思います。原著者は有名な家庭医の先生で、その本の中にこういう医者の姿が書かれていたんです。「3年ほどの研修を受けて、地域や離島に出ていく医師」っていうモデル。
それを読んだ瞬間に思いました。「あ、これだ」って。
インタビュアー
まさに探していたものだったんですね。
A先生
そうなんですよ。それまで自分がぼんやり思い描いていた「山奥の医者コース」が、その本の中にははっきり書かれていた。しかも欧米では1960年代くらいから専門分野として確立していて、ちゃんと研修プログラムがある。だから最初は、「日本の先生たちは知らないだけなんだな」って思ったんです。
その本を片手に、山形で自分で研修を作ろうとしてたんですよ。実際、学生のうちから県立病院の院長先生に会いに行って、「この本に書いてあるような研修をさせてもらえませんか」って相談したりしてました。内科、小児科、整形外科を回りながら、外来もやって、地域にも出て……本に書いてあるような研修を、6年くらいかけて自分で作ろうと思ってたんです。でも、その院長先生も意外と乗り気で、「いいよ、やったらいいじゃない」って言ってくれて。だから、「よし、これで山奥の医者になれる」と思ってたんです。
インタビュアー
それでも最終的には別の道を選ばれるんですよね。
A先生
そうなんです。ちょうど医学部4年生くらいのときだったかな。医学界新聞に、ある記事が載ったんですよ。岡山のある大学が、「家庭医の育成を始めます」っていう記事。アメリカ方式の研修で、きちんと訓練した家庭医を地域に送り出す——そんな内容でした。それを読んで思いました。「ここだ」って。
山形で一人でやるのも面白そうだけど、やっぱりモデルがある場所で学んだほうがいいんじゃないか。それで見学に行ったんです。岡山まで。
インタビュアー
実際に行ってみてどうでしたか?
A先生
向こうの先生たちに「君はここで研修しないとダメだ」って。「山形に戻ったら、結局消化器内科医で終わるぞ」とか、言われて。「鉄は熱いうちに打てだから、卒業したらすぐ来なさい」って。
それで悩みましたね。でも、そこにはアメリカで家庭医の訓練を受けてきた先生がいたんです。その先生を見て、「あ、この道は本当にあるんだ」って思えたんですよね。山形では見たことがなかった医師のスタイルだった。それが、すごく大きかったですね。
第3章 「この道に行くなら、今だ」——直感で飛び込んだ岡山、そしてアメリカへ
岡山のプログラムを見学したA先生は、「ここだ」という感覚を強く抱きます。しかし、その決断は決して軽いものではありませんでした。そこには、人生の大きな選択も伴っていました。
インタビュアー
岡山のプログラムに進むと決めたとき、迷いはありませんでしたか?
A先生
いや、迷いはありましたよ。一番大きかったのは、今の妻とのことですね。その頃、妻は同じ某大学の学生で、山形に残る予定だったんです。僕も最初は山形で研修するつもりだったから、向こうはもう就職まで決まっていた。そこに僕が急に「岡山に行くかもしれない」って言い出したわけです。もうこれは、「行くのか、別れるのか」くらいの話になりますよね。
インタビュアー
かなり大きな決断ですね。
A先生
そうですね。でも最終的には、卒業直後に結婚して一緒に岡山へ行くことになりました。
ただ、僕自身は進路については割と直感型なんですよ。最初の「山奥の医者になろう」というときもそうでしたけど、「これだな」と思うと、結構そのまま走っちゃうタイプで。岡山のプログラムを見たときも、「自分がやりたい医療に一番近い場所だな」っていう感覚があったんです。
インタビュアー
その「やりたい医療」というのは、やはり最初の「山奥の医者」というイメージにつながっているんでしょうか。
A先生
そうですね。全部つながってると思います。
僕の中で大事だったのは、「ちゃんと訓練を受けて地域に出る」ということだったんですよ。当時、日本ではよく言われていたのが「専門医になってから田舎に行けばいい」という考え方でした。でも僕には、それがどうしても納得できなかった。「適当に行っても何とかなるよ」みたいな感じがして。自分としては、むしろ逆で、
ちゃんと準備して、実力をつけてから地域に行きたいと思っていたんです。その意味で、岡山のプログラムは、日本で初めてその考え方を実現しようとしている場所だった。しかも、そこには自分と同じような志向を持った人たちが全国から集まっていたんです。そういう人たちが集まって「家庭医療をやりたい」っていう熱量で学んでいる場所だった。それがすごく魅力的でしたね。
インタビュアー
研修を始めてからは、どんな時間でしたか?
A先生
すごく贅沢な研修だったと思います。
いろんなバックグラウンドの先生が指導してくれて。アメリカ帰りの先生、カナダ帰りの先生、自治医大の先生……それぞれが外来終了後にカルテを見ながらフィードバックしてくれる。
ただ、当時はまだ制度も整っていない時代だったので、「本当にこれで家庭医になれるのかな」
という不安はありました。先輩も少ないですしね。だから途中で思ったんです。「一回、本場を見に行こう」って。
インタビュアー
それがアメリカ留学につながるんですね。
A先生
そうです。ちょうど3年上の先輩が、アメリカの家庭医レジデンシーに合格したんですよ。それを見て、「身近な人ができるなら、自分もできるかもしれない」と思ったんですね。それで卒後6年目から、3年間アメリカの家庭医研修に行くことになりました。
インタビュアー
アメリカで学びたいと思った理由は何だったんでしょうか。
A先生
大きく2つありました。
1つは、自分が受けてきた日本の研修がどのくらい通用するのか知りたかったということ。
もう1つは、家庭医療の概念を本場で体験してみたかった
ということですね。
特に興味があったのが「行動科学」と「家族志向のケア」でした。患者さんを個人として見るだけじゃなくて、
家族という単位で理解する医療ですね。それが僕にとってはすごく大事なテーマになっていきました。
この頃から少しずつ、「自分が山奥で医者をやる」というよりも、「この分野を次の世代につなげていきたい」という気持ちが出てきた気がします。
第4章 「一人の山奥の医者」から「次の世代へ」——地域で育てる家庭医療
アメリカでの研修を終えたA先生は、日本へ戻ります。
当初は大学で教育に関わりながら将来を模索していましたが、やがてある地域に根を下ろす決断をします。そこが、人口5000人ほどの小さな町、X町でした。
インタビュアー
アメリカから帰国されたあと、今の地域に来られたんですよね。
A先生
そうですね。アメリカから戻って、最初は1年半くらい大学に残って教育をしていました。でもやっぱり、自分の中では「地域で診療するフィールドを持たないと、家庭医にはなれない」という感覚があったんです。ちょうどその頃、岡山県の端のほうにあるX町という人口5000人くらいの町に、ファミリークリニックのサテライトができることになって。そこに行くことになりました。神奈川出身の自分と、山形出身の妻が、なぜ岡山にいるのかとよく言われるんですけど。でも、ここに来たことで自分が思い描いていた家庭医療を実践できる場所ができたんですよね。
インタビュアー
実際に地域で診療してみて、どうでしたか?
A先生
すごくやりやすかったですね。X町は人口5000人くらいの小さな町なので、医療資源は多くないんです。でもその分、0歳から100歳まで全部診るという家庭医療のスタイルが自然に成立するんです。都会だと、隣に小児科があって、隣に整形外科があって、患者さんもそっちに行きますよね。でも田舎だと、「先生、これも相談していいですか」って、いろんなことを持ってきてくれる。だから、家庭医療の「包括性」という意味では、すごくわかりやすい環境なんですよ。
インタビュアー
家族志向のケアも、そこで実践されていったんですね。
A先生
そうですね。僕が特に大事にしてきたのは、「患者さんを家族の中で理解する」という考え方でした。それを実践するために、電子カルテに「家族図」を入れたんですよ。当時はまだ電子カルテがほとんど普及していない時代でしたけど、メーカーにお願いして、「家族図が書けるカルテを作ってくれたら導入します」
って言ったら、本当に作ってくれて。上3世代、下3世代まで入る家族図がカルテの中で見えるようになりました。これができたことで、家族単位で患者さんを理解する医療がかなり具体的に実践できるようになったんですよね。
インタビュアー
一方で、教育も続けてこられましたよね。
A先生
はい。最初は診療所一つだけだったんですけど、少しずつ研修の仕組みを作っていきました。病院と連携して、地域のいくつかの医療機関を回りながら研修できるプログラムを作って。全国から研修医を募集するようになりました。正直言うと、「こんな田舎に人が来るのかな」と思いながら募集していたんですけどね。でも、毎年1人か2人、多い年は3人くらい来てくれて。それで気がついたら、もう25年くらい続いています。
インタビュアー
改めて振り返ってみて、A先生にとってよかったと思うことは何でしょうか。
A先生
一番はやっぱり、自分が思い描いていた医療を実践できるフィールドを持てたことですね。地域で診療しながら、若い先生たちと一緒に学ぶ。ある意味、今は「家庭医学校の校長先生をしながら、自分も家庭医をやっている」みたいな感じですね。もちろん、ここまで来られたのは自分一人の力じゃなくて。仲間がいたからこそだと思っています。
インタビュアー
最後に、これから取り組みたいことはありますか?
A先生
今一番考えているのは、次の世代へのバトンタッチですね。これまで自分が引っ張る形でやってきましたけど、もう僕も60歳に近いので。この地域で「ここで家庭医療をやりたい」と思う人たちがリーダーになって、仕組みを回していけるようにしたい。それがこれからの課題かなと思っています。家庭医療って、都会ではなかなかできない研修も多いんです。だからこそ、「この地域で学びたい」と思ってもらえる魅力をどう作るか。人の流れ、経済の仕組み、そしてリーダー育成。その3つを整えて、次の世代にバトンを渡していきたいと思っています。
まとめ
「山奥の医者になろう」
高校時代、人生を立て直すために思いついたその言葉は、やがて家庭医療という専門分野と出会い、地域で医師を育てるキャリアへとつながっていきました。
一人の医師として地域で診療すること。
そして、次の世代の医師を育てること。
その二つを重ねながら、A先生は今も「山奥の医者コース」を未来へとつなげています。